元よりこの世こそが夢幻だとしたら PART II

朝起きて、表層に上がってくる意識が寝る前と同じものであることを無意識に認識することで、自分が昨日と同じ人間だと確認するのではないか。そんなことをふと考えた。1年半くらい前にも同じことを考えている。昨日と記憶が繋がっていることで、昨日から今日の流れを把握する。でも、もし起きた瞬間に「昨日までの記憶」がごっそり誰かの記憶、もしくは全く新しい記憶と入れ替わっていたら?それでも、自分を自分だと認識できるのだろうか。むしろ、自分だと認識してはいても、それは実は昨日までの自分と違うことに気付かないのではないだろうか。

去年は、「もし、元よりこの世こそが夢幻だとしたら、意識あるこの瞬間、今日という日に、やりたい事を徹底的にやって過ごしたい。」ということで一旦結論付けた。でも、仮に記憶がごっそり入れ替わっていても、「絶対的に自分を自分たらしめるもの」ってあるような気がする。それは、奇数が偶数になれないように、そのモノをそのモノたらしめる性質・要素のようなものが、その人その人にもあるのではないか。奇数、や偶数、というのはあくまで名前なわけで、それを変えたところで本質的な部分はもちろん変わらない。名前や記憶までもがごっそり入れ替わっていても、自分を自分たらしめるモノってなんだろう。

ここまで書いて、今ふと思った。記憶が入れ替わっていても、昨日の自分と今日の自分が繋がっていなかったとしても、自分を突き動かす「衝動」はあるのではないか、と。もちろん、記憶(経験)によって衝動が起こるのかもしれないけれど、逆にまず衝動が先にきてから動作がありその経験をしたとしたら、衝動は本質的にその人に内在していたとは考えられないだろうか。ためしに調べてみたところ、衝動とはこういう意味らしい:

しょうどう【衝動】
1. 《名》目的を意識せず、ただ何らかの行動をしようとする心の動き。 「―的」
2. 《名・ス他》つき動かすこと。

憶測に過ぎないし、実際に記憶が入れ替わることなんてない(少なくとも今は)から実際どうかは分からないけれど、自分を突き動かす衝動こそが自分を自分たらしめるものである、というのはなんとなく納得できるし、そうであってほしいなと思う。

“もし、元よりこの世こそが夢幻だとしたら、意識あるこの瞬間、自分を突き動かす衝動に従って生きていたい。”

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