元よりこの世こそが夢幻だとしたら
-MUGEN(ポルノグラフィティ)
自分という存在は、今までの記憶でしか証明できないのではないか。電王っぽいけど、”人の記憶が時間を作る”。目が覚めて、昨日の自分が今日の自分に繋がっていると認識出来るのは、記憶があるからだと思う。映画・攻殻機動隊の冒頭、主人公の素子は朝ベッドで目覚めた後しばし自身の腕を見つめている。これには、”この腕は自分の身体である”という、昨日から今日に続く記憶が、身体の殆どをサイボーグにした素子の過去と今を繋げている、そんな意味があるのではないかと思う。
でももし、毎日世界が”リセット”、書き換えられていて、自分に毎日新しい記憶が与えられているとしたら?仮にこの世界には自分一人の自我しかなくて、世界はその自我を中心に形作られているとしたら?周りの自分に対して持っている、とされる事実は、毎日記憶が与えられた瞬間に設定されているとしたら。寝る度にその日の記憶がリセットされて、起きる度に違う身体に違う記憶が与えられているとしたら、それに気付くことができるのだろうか?人の心が見えないのは、今この自分の中にある自我以外は、全てその自我が作り出しているものだからではないのか。極論、記憶さえ与えられれば、起きて違う人になっていたとしても気づかない。
この世界は、過去も未来も実は存在していなくて、意識のあるこの時間の間のみ存在している世界、なのかもしれない。そうすると、過去に起きたとされる出来事や、現在当たり前とされている事(重力さえも)の全ては、設定に過ぎない。”当たり前”が毎日書き換えられていたとしても、気付く術がない。
シュレディンガーの猫から発展する多世界解釈もあながち間違ってない、のかもしれない。この世の中自体が複数の可能性の一つであり、その様々な可能性の一つを毎日自分の自我が見ているだけだとしたら。
今後もこのトピックに関しては考察を続けようと思う。
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