AのためにAをする

自分の基本的な考え方として「自分の思いつくことは世の中の誰かがすでに実現している」というのがある。思いついた時点で、既に二番煎じ。でもこれは裏を返すと、思いついて検討段階に入っている時点で実現可能性がある、ということだとも思う。よく読みに行くこの人のブログの、この記事に共感を覚えたのは、自分の普段のそんな考え方に似た話だったからだと思う。

「できなさそうな事」と「本当にできない事」の違い
http://katsuaki.co/?p=625

心の中で念仏のようにしょっちゅう口ずさんでいる言葉に「大したことはない」というのがあって、きついときでもこの言葉で不思議と馬力が出る。あと、何かの試験に受かったりしたときも自分を戒める意味で「大したことはない」と言うようにしている。どんな試験でも自分だけが受かったわけではなく、さらに過去に多くの人がすでに受かっているわけで、そこで喜んでいたら何かが既に終わってる気がする。

殆どの事は既に誰かが達成している中で「じゃあ何をする?」と考えた時、自分の場合は「自分を突き動かす衝動」に従えばいいと思っている(”行き当たりバッタリ”を良く言うとこうなる笑)。それは、BのためにAをする、というように”別の目的があってする行動”ではなく、AのためにAをする、というような”その行動自体で完結しているもの”ではないか、と思う。例えば山に登るのも、山頂で天啓を受けたいとか崇高な目的があるわけではなく、単純に”登るために登って”いる。これは別に山に限った事ではなくて、走りたいから走り、描きたいから描き、作りたいから作る。それでいいんじゃないのか?と思う。人に何をとやかく言われようと、行動自体が目的として完結してる事ってあると思うんだよね。

正直自分一人いなくても余裕で回る世界で何をするかといったら、そういう「何故か分からないけど、どうしてもそれがやりたい」と思える事に、人に理解されるかとか金が稼げるかとか、そんな事は全部放っておいて突っ込んでいく事なんじゃないかなー、と。そんな事を思う。あとはまあ…何とかなるだろ、って事で。笑

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