外装で前職に思いを馳せた後は中へ。中で見た青森ねぶたはいい意味で期待を大幅に裏切ってくれました。極彩色に彩られたねぶたは圧巻の一言で、これらが太鼓や各種楽器の音色、ハネトの踊りや掛け声、参加者や場が発する熱気、と共に街を巡る姿を想像するとそれだけで鳥肌が立ってきます。館内ではねぶたが内部に設置された電飾で煌々と光を放っており、当たり前ですが現物は写真よりも圧倒的な存在感でした。館内に展示されていた説明文と共に写真を載せていきます:
素戔嗚尊八岐大蛇退治
高天原を追放された素戔嗚尊が、出雲国肥の河の一軒の家で、老夫婦と美しい娘が泣き悲しむ様子に出会った。尊が尋ねると「私には8人の娘がいたが八岐大蛇が毎年来て一人づつ食べてしまった。今年も来る時期になり、最後に残った奇稲田姫を差し出さなければなりません」と言った。
尊は娘を妻にもらうことを条件に退治する約束をして、老夫婦に強い酒をつくるよう命じた。やがて大蛇がやって来てその酒を飲み干し、酔って寝込んでしまったところを尊が切り刻んでしまった。そのため肥の川は真っ赤に染まった、という出雲国の神話である。
陰陽師、妖怪退治
陰陽師とは、古代の日本に存在した呪術、占術「陰陽道」を用い、吉凶を占い幻を現し、時には呪いや鬼さえも操ったと言われている。
陰陽師が最も活躍したのが平安時代だが、その時代には闇と迷信が支配し、怪異や天変地異、物の怪や怨霊が世を乱すと思われていた。人々は神、鬼、精を「もの」と呼び恐れ、「もの」は人に憑りつき、ある時は疫病を流行らせた。どこからともなく現れ、人々に不幸をもたらす妖怪変化と戦い、あるいは前兆を読み、不浄を取り除くことが陰陽師の役割だった。このねぶたは、陰陽師が霊符を用い、魑魅魍魎を退治している場面である。
蝦夷ヶ島、夷酋と九郎義経
源九郎義経は奥州平泉で自刃せず、生き延びて北を目指したと密やかに伝えられる。津軽半島からさらに北へ、蝦夷地(北海道)へと辿り着く。
そこに生きるのは力強く、生命力に満ち溢れたアイヌたち。かれらは極彩色の豪華絢爛な衣装に身を包み、こちらをねめつけるような視線を送る。
水辺へやってきた鹿を素手で仕留め、日々の糧とする。厳しい自然に立ち向かい、時には共存しながらたくましく生き抜くアイヌの姿と、それを目の当たりにして己の天命を全うしようと固く決意する義経であった。
俵藤太と竜神
平安時代中期、瀬田の唐橋の下に棲む竜神は大百足に悩まされていた。
そこへ通りかかった田原藤太秀郷の豪胆さを見込んで百足退治のため龍宮へ案内する。竜神に頼まれ三上山の大百足を退治した秀郷は、お礼として慈尊出世を告げる名鐘と米の尽きることのない米俵や名剣を贈られた。こののち田原藤太は俵藤太といわれる。
名鐘は三井寺へ納められ「三井の晩鐘」といわれ、名剣は「蜈蚣切」の名で宝刀として伊勢神宮に所蔵されている。いわゆる大人の龍宮伝である。
とにかくどれも圧倒的な迫力!次に青森を訪れる際は是非実際のねぶた祭りにも参加したいと思いました。
ワ・ラッセを思う存分堪能した後は青森県立美術館へ。ここまで各県の美術館はスルーしていましたが、ここには成田亨の作品が展示されているということで興味を覚えたのでした。成田亨といえば、初代ゴジラの制作に参加し、ウルトラQやウルトラマンに出てくる怪獣やウルトラマンのデザインを担当した方で、9年前に三鷹で開催されていた「怪獣と美術」という企画展に行った事を今でも覚えておりその時買った「怪獣と美術 成田亨の造形美術とその後の怪獣美術」という図録は今でも祖父宅にて保管しています。
そんな理由からこの美術館に行ったのですが、成田亨作品の展示数が思ったよりも少ない!上記の怪獣と美術企画展や特撮博物館に行っている自分としては少々物足りない思いでしたが、他の方々の作品も展示している以上仕方がないのかな、と思います。昨年ここの美術館で開催されていた展覧会「成田亨 美術/特撮/怪獣」には是非行ってみたかった!
この時点で15時前。この日は近くの映画館で18:30からシン・ゴジラが上映されることを事前に調べてあり、少し早いのですが映画館に向かいました。映画館の横にはショッピングモールがあり、チラッと寄ってみたところモンベル発見!和歌山で入手できなかった20Lザック用のザックカバーを青森で入手する、という、ザックカバーひとつでなんとも全国規模な展開。
5回目のシン・ゴジラ鑑賞後は翌日の立佞武多(たちねぷた)見学のため、本降りになってきた雨のなか五所川原に近い道の駅、鶴の里あるじゃへ。
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