仕事論的な、サムシング

初日の出

雲取山下山中、I氏につい熱を込めて語った所謂「仕事論」的なもの。今現在の自分の考えを整理する意味も兼ねて、一度文章化しておきたいと思う。

自身の現状と周りからの目

自分は現在、仕事をしていない以上一般的には無職という状態にあたる。とはいえ、今の状態になることはイレギュラーなことではなく、「19’年内は仕事をすることも、仕事を探すこともせずに貯めたお金で悠々自適に過ごす充電期間にする」つもりでいたので、言ってみれば『計画的無職』といったようなものだと思っています。

が、自分ひとりで出かけたり過ごしたりする分にはまったく問題ないこの状態が、人と関わることで突然やりづらくなります。例えば親元を離れていない友人と出かけるにあたって、俺をどのような人物と親に説明するかは少し苦慮する部分があるようです。つまり年上の誰それと出かける、となったときにその誰それは何者かという質問が来るわけで、その答えが「無職の自由人」だと困ったことになるというわけです。一般的なイメージとしては分からんこともないので「社会人ですとか言っておいたら」と俺は言うわけですが、なんとも肩身の狭い思いをすることになります。

特に自分も含め(ていいのか分からない年齢に差し掛かってはいますが)若い世代、もしくは登山やクライミングなどの割と自由人が多いスポーツを好んでやっている人であれば理解されやすいのですが、親の世代や一般的な社会の認知としては仕事もやらずに自由にしているという状態は少なくともプラス方向に捉えられることはあまりないようです。

2016年に一人で全国を巡っていたときは社会との接続を自ら絶って行動していたのでこういったことに気づきにくかったと思います。今現在は今までどおり周りの人間と関わりを持ち続けながら毎日を謳歌しているので、人の目をどうしても意識せざるを得ない状況にいます。

日本という国の特性

つまるところ、どれだけ頑張って貯金して自由になるお金がありその資金を元に仕事をせずに楽しくやっているとしても、そもそも「仕事をしていない状態」であることが肩身を狭くする。俺がこの年齢になりようやく気づいたのは、こういった生き方に対する許容値がまだ日本は低いのではないかということ。この点においては、俺が暮らしていたオーストラリアやカナダのほうが許容値がある印象は受けるし、おそらく実際なにをしていてもあまり周りの目が気にならない自由さはあるように思います。

とはいえこの点においてのみ国同士を比較して優劣が決まるわけではもちろんなく、その他さまざまな要素をもってやはり自分は日本が一番好きな国であると断言できます。端的に言えば他人の目が厳しいからこそ日本人の勤勉さや技術力に繋がったようにも思うし、自分にも他人にも厳しい風土を醸成させる土壌みたいなものの一部がこの生きにくさな気もします。他人の目の厳しさは肥料のようなものかもしれません。

とまあここまで考えるに至って、日本で社会性を維持して暮らしていくには所謂「社会人」として仕事をすることがまず第一義にあり、例えばある程度働いてお金がまとまったらそのお金を使って自由に暮らして、みたいな生き方は少なくともここ日本では適していないように感じました。

もちろん、年齢的には結婚やら子供やらというのも意識せざるを得ないという別問題もあります。個人的には何歳まででも独り身で楽しめる自信のようなものはありますが、最近になって「独り身でも十分に楽しめる」ことと「結婚すること」は同列で比較できるものではないのかな、という気もしてきています。これは別の話ではありますが、ここ最近考えていることのひとつではあります。

定住することの意味

話が少し変わり、仕事をするには基本的にはどこか一箇所に定住していることが前提となります(もちろん例外はありますが一般的な話として)。これは仕事のみならず、上記の結婚のようなことを視野に入れた場合も「定住」がキーワードになります。ただ、自分の場合親が移動の激しい人生を送っていた(むしろ現在進行形)ことも影響しているのか、この歳になってもまだどこか一箇所に定住することに対して抵抗があります。以前2016年に日本中を旅した後、自分は記録の中でこんな風に言っていました。

旅を終えても、定住することの意味は見つけることが出来ず、ここだ!という場所にも巡りあいませんでした。

愛読している『山食』の最近のエピソードの中でも偶然似たようなことが取り上げられており、改めて考えさせられる契機となりました。この漫画が与えてくれる気づきは本当に多い。

誰しもみんな
いつか辿り着くべき安住の地を
探して生きている
理想を求めて移り住んだり・・・
(中略)
居場所を求める人生に
疑いを持つこともなく───
人が帰りたいのはなぜ?
– 第125話『悩ましのせんべい汁』より

今に至っても、定住することの決定的な意味は見出せていません。ただ、30余年生きてきた中でひとつ気づいたことがあります。それは、所謂「故郷」「地元」がなく定住する地が確定しない自分にとっての帰るべき場所というのは、「一緒にいたい人たちといつでも会える場所」ではないか、ということ。人との出会いにはとことん恵まれていた自分は、主に関東近郊を中心にお互いに誘い合ってクライミングをしたり特撮を語り合ったり、飲みに行ったり、何かを共にする人たちがたくさんいます。自分と関わり合いのある人が多くいる場所が結果的に定住する場所になった───定住することの意味はこんなことでもいいのではないかと最近思い始めています。これは知り合いが0人の長野に一時期住んだことで導き出された結論でもあります。

人と関わることと仕事

自分は今まで、仕事をすることの意味は「お金を得るための手段」であるときっぱりと割り切っていた部分が大きい。ある程度の資金が貯まり、仕事よりもやりたいことが出来ればやりたいことを優先することが至極当然のことであると考えてきました。これはこれで間違った考え方ではなかったと思っているし、今までこのような生き方をしてきたこと自体に後悔は1mmもありません。

ただ、もし自分がある場所に定住することを「関わりたい人たちがいる場所」という観点から考えた場合、社会性を維持して人と関わり続けるには「仕事をしている」ということがひとつの絶対条件であるように思います。「なぜ人が仕事をするのか」というトピックで徹底的に掘り下げた場合、自分の場合は突き詰めると「人と関わり続けるため」というのがひとつの答えであると今の自分は考えています。そもそも生きるためにはどんな内容であれ仕事をせざるを得ない人たちも大勢いる世の中で、割と自由に生きられるポジションにいる自分は幸せなのかもしれません。おそらく(いや間違いなく)ここまで計算していたわけではないにせよ、こういう人間に育ててくれた親には感謝の一言です。

もしかしたら今後新しい考え方に出会い今の自分のことを否定することになるかもしれません。ただ、少なくとも今の自分はこう考えて動いていたんだということを残すために、一気に文章化しました。願わくば、いずれ振り返ってこの文章を読み返した自分は今以上に楽しく生きていてほしい。そんなことを思う今日この頃です。

2020年1月18日

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